恐らく、何の心の準備もなしにいきなりこの構成を読んだら、ど肝を抜かれるでしょう。(笑)
すごいですよこれは。
最大4つの視点で同じ時間が描写され、しかも各章が終わるごとに時間を遡ってしまうのです。
これと比べたら「フロリカ」の時間軸の交差などかわいいものです。
そして、「ブギーポップは笑わない」の章構成だけを見たならば、
「一体どうやったらこんな構成を思いつくのだろう?」と思うはずです。
しかしながら、「フロリカ」と「ブギーポップは笑わない」の章構成を見比べていると、
「おや?」と思うところが出てきませんか?
「フロリカ」は第3章、第4章の2つで全体の時間軸を貫いていて、
これらが構成のバックボーンになっていることが分かりますよね。
恐らく藤原京さんは最初に第3章、第4章の大枠を構想した上で、
後からプロローグと第1章、第2章、第5章をくっつけたのだと思います。
次に「ブギーポップは笑わない」でも構成のバックボーンを探してみましょう。
「ブギーポップは笑わない」は「フロリカ」と違い、各章がそれぞれある程度完結した物語になっています。
そのために各章に流れている時間は「フロリカ」のそれに比べて長いものになっているように見えます。
では、逆に一番時間軸の短い第5章はどうでしょうか?
改めて第5章を読んでみると、
なんだかクライマックスであるこの章は
第1章や第2章と違って他の章からの独立度が低いような気がしませんか?
しかも第5章の始まり方は唐突で、他の何かのエピソードからの続き物のように感じられます。
では第5章は他のどの章の続きなのかを考えて見ますと、
時間軸が第5章の直前で終わっている第3章が怪しいことが分かります。
試しに第4章を飛ばして第3章と第5章を続けて読んでみると、あまり違和感なく繋がります。
ということは、「ブギーポップは笑わない」の構成のバックボーンは第3章と第5章であり、
第4章はあとからバックボーンをぶった切るように配置されたものとは考えられないでしょうか?
上の章構成には載せていませんが、
巻頭の「イントロダクション」が第3章の早乙女と第5章の新刻の視点で描かれているのも、
この仮説を補強する材料になりそうです。
こうして考えてくると、「ブギーポップは笑わない」は、「フロリカ」よりも捻ってあるものの、
・まず第1章、第2章で読者の作品世界への興味を引いた上で、
・一旦時間軸をさかのぼり、
・第3章、第5章(「フロリカ」では第4章)のバックボーンに引きずり込む
という共通する構成を採っているようではありませんか?
と、まぁこんな具合に、いろいろ考えられる訳です。
以上の仮説は私の思いつきによるもので、
はっきり言って、探せばかなりボロが見つかるのではないかと思います。
けれども私の言いたいことはそんなことではなくて、
『「ブギーポップは笑わない」は確かに色々な面で斬新な作品ですが、
決して従来までのライトファンタジーの流れから超越した作品ではない』
ということです。
いきなり「ブギーポップは笑わない」を読んでしまったなら面食らってしまうかも知れませんが、
事前に「フロリカ」を読んでいたならば、その衝撃は確実に和らいでいたはずです。
そして「フロリカ」は「ブギーポップは笑わない」よりも3年前に発表された作品であり、
「ブギーポップは笑わない」と比べて単純ながらも、
章ごとの視点の切り換えや時間軸の交差を採り入れる土壌が、
既にその頃のライトファンタジーには存在していたことを示しています。
残念ながら「フロリカ」は悲しいほどに売れず、
ほとんど話題に登ることのない「ミッシングリンク」的な存在となってしまいました。
どんなジャンルでもこういうことは珍しくないのでしょうが、
「時の鎖」という副題のついたこの作品にとっては実に皮肉な結果です。
それでも、藤原京さんは「人生なんてそんなもんなんだよ」と笑っているのかもしれませんね。(笑)
藤原京さんと上遠野浩平さん。
作風の良く似た2人の作家さんの埋没と成功の分かれ目は一体何だったのでしょう。
藤原京さんが「人生なんてどうにもならないんだよ」とクールに徹したの対し、
上遠野浩平さんは「人生って素晴らしいよな。いや、マジで言うと照れるけど」
と可愛い面を見せたから、とか考えたりして。(何だそれは)
いや、やはり出版社が積極的に売りに出たかどうかが一番大きかったのでしょう。
貴方も貴方だけの、人気作、話題作の影に埋もれてしまった
「ミッシングリンク」を探してみてはいかがでしょうか。
なお、「ヲタク!」と声を掛けられるようになっても責任は負いかねますので、
あらかじめご了承願います。
(ちなみに私はヲタクじゃない!信じてくれよ刑事さん。本当なんだよ!)
では、今回はこのあたりで失礼いたします。お粗末さまでした。